防災は草の根から

海・川を見つめながら生きる住民の防災

  目次 

本日のお話の内容

     はじめに 私の昔話 気象観測と国の防災意識
     0.のっけから結論です
     1.住之江区のあるマンションと防災の取組みのこれまで
     1.津波・防災避難訓練 ビデオ
     2.DIOS 災害・情報・管理・システム
     3.市立佃中学校防災クラブ[2015年]
     4.佃連合町会防災訓練に参加して
     5.2011.3.11 大阪2つの壁
     6.正常性バイアス
     7.ミッション120  (Mission120)
     8.昭和南海聞き取り調査
     9.最後のワンピース
     10.高潮と津波は同じだ
     10.フィリピン台風30号 ハイエン
     11.KIX関西国際空港の防津波堤防のかさ上げ工事
     12.今後の課題
     13.質疑応答





  はじめに 私の昔話

防災の情報源  気象庁の略歴

1875  東京気象台 ・地震計設置

1883  日本初の天気図

1887  中央気象台

1956  気象庁

1969  大阪柏原市国分は集中豪雨

1974  アメダス AMeDAS 観測網

        (1979正式運用)

1977  気象静止衛星ひまわり 

        (1978正式運用)

  


雨量計

西名阪高速道路

はじめに 昔話から

 1969年秋、大阪柏原市国分は集中豪雨に見舞われました。私は、中学三年生科学部部長、毎日百葉箱で気象観測をして、気象通報から天気図を書き、明日の予報を黒板に書くのが日課でした。その日の雨は桁外れで、休み時間ごとに雨量計の計測と、再セットを3から4回したような覚えがあります。一日中学生服はボトボトになっていました。それから4~5日後でした。
 突然全校放送で至急職員室に来るように呼び出されたのです。電話が掛かってきたというのです。当時、至急の電話の呼び出しで良い話があるはずがありません。怖かったです。行ってみると、建設省(今の国土交通省)から電話だから早く出なさい。と理科の先生にせかされました。「もしもし、電話を替わりました。加治屋です。」「君は、10月〇〇日に気象観測をしたと聞いたけど、本当ですか。」「はい、やりました。」「それでいくらでしたか。」「〇百〇十〇ミリでした。」「えっ・・・どうやって測ったんだい。」「一時間おきに雨量計を確かめした。一回目は満杯、2回目は〇〇ミリ、3回目は〇〇ミリでした。」「何時間の間測ったのかい」「一回目が9時30分、二回目が・・三回目は・・・です。」「君は本当のことを言ってるのかい、南河内で今までそんな雨量を観測された事例はないんだよ。集中豪雨の例は今まで報告されていないんだよ。」「本当です。・・・」会話は終わり、教室へ戻りました。と、また呼び出しの放送です。同じ人が、同じ質問をし、同じ答えを記録を見ながらしました。と、電話の主が変わりました。「私は、建設省の○○部長です。今の話は本当ですか、これは大事な話です。今、南河内に高速道路(西名阪国道)を造っているのは知ってるよね。君の報告が本当なら集中豪雨対策の道路に変えなければならないんだ。既に設計図は出来ているから、君の言うのが本当なら、建築方法からやり直しになるんだよ。何十億円というお金が掛かってしまうんだよ。工事が何カ月も遅れるんだよ。もう一度聞くが、君は本当のことを言っているのかい。」「はい、他のところにも聞いてみてください。」「それが、この地域では、君しか観察してなかったんだよ。」・・・西名阪国道は、関屋のトンネル工事が済んでいて、これから藤井寺方面の工事が始まる時だったんです。工期が本当に伸びたかは知りませんが、校区内にあった土砂崩れ危険地域に指定されていた山が一つ全部削り取られて、無くなっていること(今の料金所の西隣)、あの地区は高架ではなく、土手式の高速道路だということを知る人は今、気にする人は少ないでしょう。実際の数値がものを言うのです。その後アメダス観測網(1974・正式運用1979)、気象衛星「ひまわり」(1977)と気象技術は進化していきました。
 当時の私たちにとっては、大雨が降るということは、その翌日大和川が増水して、大和郡山の金魚が流されて、タモ網で金魚すくいが出来るということでした。
 一昨年のことでした。防災の授業で昔話をしていてこのことを思い出したんです。そして、中学を卒業してから45年して、一つ疑問に思っていたことが解決しました。実は、その翌年春の卒業式で私は、善行賞(柏原市)を唐突に受賞していました。全く理由を聞かされることもなく。なぜ貰えたのはずっと分からないままでした。



  のっけから結論です

正常性バイアスを乗り越えよ

0.のっけから結論を申し上げます。


 正常性バイアス[安全性バイアス]を乗り越えたその向こうに防災はある

 水害で水が超えなかった堤防は歴史上一つも無い

 どんなに準備ができていても、その時、その場ですべての判断をしなければならない

 準備が効力を発揮するのは、被災して数日後から

 その時の情報の入手と発信こそが、その後の避難所活動に影響する ・・・・DIOS

 防災の最大の評価点は、どれだけ多くの人の参加を得るか

 Mision120 地震・津波は最初の120分が人命救助のリミット(津波は90分)

          自助 まず自力で生き延びる、共助 助けられる命は助け合う

          DIOSが使えたならば、その地域は、おのずと地域の組織化ができる

          公助 公的機関の下に早く組み込まれて、長期の避難所を運営する。

          これから東南海地震・高潮・海面上昇を前にしてどうする。

   紀淡海峡に昔は橋を架ける話がありました。今、大阪湾の津波を少しでも避けられるとしたら、この紀淡海峡大橋の再検討もすべきです。しかも、友が島の北側に津波高潮防波堤を幅100m長さ3kmのものその先に橋を架けその橋脚が津波高潮防潮堤ということです。

  




  ファミリートーク新北島管理組合の「防災」取り組みの流れ












1.ファミリートーク新北島 防災の取組のこれまで
 私どものマンションは1985年入居開始の32年目ということになります。”この間、私たちは毎日大和川を大阪湾を見て生活していました”
私が管理組合の理事になったのが1994年、その年度末1995年1月17日が阪神淡路大震災でした。現在の理事長があわただしく、躯体の損傷を調べていたのを覚えています。結局直後の躯体被害はなく、数年後に雨水開所の多くが陥没していたのが分かった程度でしたが、住之江区からは、大阪湾の対岸で燃え続ける長田町あたりの煙を忘れることができません。10年が経ちました。理事会で、防災対策がいるのではないか、阪神淡路大震災の話題がだんだん風化し始めている今こそ取り組みを始めよう、ということでした。全員の賛同を受けましたが、予算
は数万円。防災対策のプロジェクトの必要性の啓蒙から始めましょうということになりました。
 2005年の一年間はほぼ毎月、委員会を開きました。最初は理念から5月21日通常総会での「災害に強いマンションづくり」宣言、6月12日消防避難訓練参加率51%(104/203)と非常食の試食会、7月24日阿倍野防災センター見学、そしてポスター作りと忙しい一年でした。 2006年防災リーダー(区役所町会のとは別物です)を選出することになり、この際ということで、理事と各階フロアーの皆さんと懇談をつつ、防災リーダーの必要性と防災名簿の説明をするということに取り組みました。避難訓練も毎年取り組めるようになり、ずっと、
備蓄食料の予算化を課題にしていましたが、2009年からは予算かで認められました。

 それは、2010年春先のことでした。ペルー沖で地震、津波が日本に届くことがわかりました。当時防災を担当していた私ともうひとりの副理事長は、大和川でそれを観察することにしたんです。なかなか来ません。”酒”も入りそれでも寒くなってきて引き上げようとした時、津波は大阪湾から遡上してきました。高さは5cm~10cm、速さがロードサイクル自転車なみ、12km/時というところでしょうか。慌ててスマホで写真に撮ろうとして失敗しました。
  特徴がありました。大和川を真っすぐ上ったのではなく、堺市がわが早い、わかりやすく言うと、真西から遡上したのでした。このことは、翌年東日本津波の時に問題になりました。それにしても、飲酒しながら津波見物をしたことには、当時の認識の低さ、無知をさらけ出しているものです。

 2011年3月14日、大阪の人間がこの日のことを書くのはあまりにも失礼な気がして気が引けるのですが、ここは大阪の防災ということでお許しください。
長時間の揺れ
のあった時、私は夜間中学校の卒業式の段どりの最中でした。あの揺れで住之江区WTCの壁が壊れ、エレベーターの事がクローズアップされたのは記憶にあると思います。あの時は、防災の権威、川田教授の再三の指摘が的中して、すごい、すごい先生だと敬服しました。その後先生はどんどん大阪の防災で前に出ていらっしゃるので少し安心しています。
 前置きはここまで、大和川の脇に建つ私どものマンションでは大和川を遡上する津波を見た人がいました。高さは50cm、速度が問題で「自動車の速さ」だと証言を頂きました。「自動車の速さ」とは、少なくとも40km/時だというのです。(50km/時)だったかもしれないのです。やっぱり堺側が先、つまり真西から襲来しました。
  マンションの防災対策委員会はあわてました。東日本大地震の震源が瞬時に南下、いつ東南海地震に発展するか、「次は自分たちが被災する番だ」という危機感は住民共通の事でした。
さて、私や住民の最も恐れていた事態が起きていたのです。その事態とは何だったと思いますか。
 その日以降、NHKを先頭に全報道は、「大阪が津波に襲われた場合、2階以上に避難してください。」で、連呼していました。住之江区の場合、堤防を水が超えたら最初から2階は浸水します。しかも、漂流物(大型の船)が津波に乗ってきたら3階ももたない。最低でも4階以上でなければならないのは、“海を見て、川を見て”暮らす我々には自明の事なんです。逆に堤防が視界を遮っている戸建て住宅の人は、大間違いをしてしまうことになります。
  大至急に是正しなければならない。住之江区住民の「命」の問題が“報道”によってもたらされていたのですから。
 防災対策委員会を緊急で招集、津波対策避難訓練を企画しました。
  ・ 4階以上に避難する (住民には5階以上)
  ・ 防災対策本部を4階に置く
  ・ 大和川堤防、河川敷の人々に対してもスピーカー避難誘導をする。
  ● 報道NHKを始め連絡のつく報道を全て呼ぶ(新聞社含む)
  ・ 区役所の応援を要請する。 消防訓練を兼ねて消防署を呼ぶ 警察も
  ・ 最大限早期にやる  その根拠となる 災害時初動マニュアルを作る
2011年6月19日 区役所・消防署・警察署・そしてNHK民放各テレビと数社の新聞社の前で「4階避難」を強調しました。2012年度も報道を呼びました。
 直後から全報道は、「4階避難」と言ってくれるようになりました。
2013年からは、女性による避難訓練を目指しています。




  「津波」防災避難訓練 ビデオ




  DIOS [災害・情報・管理・システム]










DIOSとの関わりの最初から

 さて、2011年に立ち戻ります。訓練が終わってから区役所の防災担当職員と立ち話をしていました。彼は、東日本大震災後“釜石”に派遣された職員でした。それはそれは興味深い話を聞かせてもらいました。すると「DIOS」ディオスというシステムの話をし始めました。釜石の数ある「避難所」では、物資の分配が大変な課題になっていた。大きな公的な避難所は「物資・食料があまり」、片や何も届いていない部落の集会所、個人的な家屋もあったりしたようです。そして彼は
区役所でこれらを解決するインターネット上の情報共有システムを作ることを提案し、作ることになり、DIOS[災害時、情報、管理、システム]と名付けたが、誰が作るか、いくらいるか、そこでつまずいていると独白しました。私と初対面の彼は、費用の掛からない、情報システムを区役所と学校などの避難所にインターネットを利用して作りたいと言ったのです。
「よっしゃ!作ろう。」教育と区役所などの行政は完全に縦割りされています。ましてや消防や警察などの“情報”に長けた人々ともつながりはありません。教員で情報教育を肩書にしていましたから、やめときゃいいのにやっちゃいましたね。これが、ついには今日のこの話となり、後にお話しする頭痛の種になるわけです。(人間が単純なんですね)


DIOSを作るにあたっての条件
1.安価
2.学校と区役所が共有できる
3.学校以外の私的な避難所も共有に参加できる
 これらをクリアするには、区役所でも教育委員会でもない、かといって個人・企業が作ってもお互いに参加できない。たまたま、学校教育現場を職場にしている。情報技術教育の職員研究会に所属している。また、学校現場に対して、Googleはサーバーをタダで提供してくれる事を知っていました。
 教職員の情報教育研究会の名前でGoogleの協力を頂き、Googleのサーバー上にサイトを作りました。(osakacityhall.info)インターネット上でドメインを維持するだけの支出ですみます。当初は教職員のカンパで維持しました。
 翌年には大阪市危機管理室にも見てもらい(区役所から)、危機管理室は津波避難訓練も視察してくれていました。
 2016年DIOSを使った研修会を行ったり、学校教育現場でもDIOSを使った防災教育の研究発表も行いました。しかし、課題がはっきりしてきました。 1.のど元過ぎれば熱さ忘れる。風はやみかけてきました。おそらく、昨年の熊本地震による関心の盛り上がりも時間の問題です。
2.2016年区役所職員の異動がありました。2014年以降区役所からも公言の許可がでてこれからという時にもう、区役所の後押しはありません。(現在住之江区役所のホームページにはもう案内すら乗っていません。削除になっています。)
3.DIOSは性格上、IDとパスワードを持っている人しか利用できません。私に問題があります。あと1~2年で教職を去らなければなりません。すると、Googleを無料で使用する資格がなくなってしまいます。
[ここでオフフレコ]
2011年DIOS開発があった時、区長の後押しを防災担当者は得ていました。翌年、区長の公募があった時、その区長は私を区役所に呼び、このシステムを3000万で作れるかと聞かれたことがあります。私は、笑って年に2~3000円で釣りがくると答えました。次の区長は何もしませんでした。今回また区長が変わりましたが、何もアプローチはありません。勿論危機管理室は危険情報発信しかしていません。
 区役所の後押しを失い、学校現場にだけでもIDとパスワードを配るという、最終段階に到達できないでいます。私も後任探しの必要がないのです。
[オフフレコ終わり]
 昨年12月、学校に関する法律がひとつ追加されました。そのさい、今後文科省は学校を巻き込んだ防災情報網に取り組むとしています。本当は、2013年には大阪にはあったのに今後本当に国に任せてよいのか?役人だけで作ると、今すでにある市役所と区役所間のシステムとなんら変わりないものになってしまいます。少なくとも、東日本大震災、熊本地震の被災者を加えた委員会ができれば、・・・と危惧しています。それでも、そのシステムができるまでは、大阪にはDIOSしかありません。
 本来、お金を積んでプロのプログラマーに作ってもらった方が良いわけです。仮に後継者が見つかって、ドメイン代金の出所が決まったとしても、メンテナンスは必要です。
破壊しているのだとの強い意志を持って乳棒を動かしましょう。5分、少ししつこいくらいにすり潰します。





  大阪市立佃中学校防災クラブ[2015年]




 DIOSには、練習のページがあります。これを追加したのは前年のDIOS公開許可が区役所から出ていたのをふまえて、佃の連合町会防災担当者に評価してもらいたいと思ったからです。夏、中学生徒会防災クラブの生徒に西淀川消防署の心肺蘇生訓練、西区の高潮防災センター見学で学習させ最後に佃地区恒例の簡易ポンプ放水訓練の体験をさせました。この時伺ったのは、佃の水害に対する執着でした。隊長以下役員はみなある程度高齢に達したシニアの皆さんでした。みな、ジェーン台風、伊勢湾台風などの記憶がありました。みなあの悪夢からにげられないでおられました。お返しで学校の防災教育の大阪市内発表会に来てもらい、パソコンDIOSを使った情報収集疑似体験を見てもらいました。残念だったことは、ある程度高齢に達している皆さんには、中学生が何をしているか理解できなかったようでした。









  西淀川区佃連合町会防災訓練に参加して






2015年佃の連合町会の防災訓練に参加してみて

2016年1月佃島連合町会という大阪市内の防災訓練で実質最大のものに参加しました。ここでは、PTAも町会全員、特に女性部が頑張っていました。佃中学校が総本部となり、佃各地から防災無線で入電してくる情報を張り出すなり、次へ伝えるなりと走る回る半分外回り、半分は本部での机上訓練という感じで展開していました。終了後連合会長が西淀川区役所防災担当者に詰め寄っていました。内容が佃の特徴を反映していました。連合会長たちは、あと50台防災無線を調達して、各地区に配布するように要請していました。合計100台の無線機で情報を収集しようとするものでした。この場合、無線のセンターが各地域と会話するオペレーターがカギを握ります。実際町会長たちは、そのオペレーターの訓練をしていました。(タクシー無線で本社のオペレーターが各タクシーの行動を把握するのに似ています)私がちょっと職員室に戻っているときの会話が思い出されます。
PTAの役員さん40前のお母さんの話です。「いったい何の訓練をしているのかさっぱりわからない、最低な訓練、テストやったら20点にもならないわよ。」少々露骨な批判を校長相手にしていましたが、つかさず私が話の相手を取りました。「防災訓練の最大の評価は動員できた人数なんですよ。被災したその時、一か所にみんなが集合できるだけで、次の行動は必然わかります。人員点呼や無線連絡の内容に評価の項目は大したことはなくて、これだけの大規模な訓練をできるのは、大阪市内でここだけなんです。私の評価は最低でも80点、90点以上でもけっしてまちがっていませんよ。」紙と鉛筆そして無線機が大阪市最大の防災訓練の中身でした。 「インターネットに移行するのはもう少し先になる」というのが連合町会長の言葉でした。





  2011.3.11 大阪2つの壁






4階以上 そして

話は2011年にまた戻ります。
 あの時 2つの壁に直面しました。一つは前述した「津波避難が4階以上」2つ目はホームページ上に当時溢れていた津波シミュレーションでした。その前の年不埒(ふらち)にも酒を飲みしかも河原で津波見物をしていた時、ホームページではすでに津波シミュレーションはあちこちありました。その中で一つだけ、時速12km/時、真西からというものがあったのですが、不覚にもアドレスを記録しておきませんでした。それが、2011年震災後にもうなくなっていました。すごく、残念でした。東日本大震災後それはそれは大阪湾に関するシミュレーションであふれかえっていました。どの大学も同じソフト、同じデータからやったんでしょうね。全部間違っていました。(これは皮肉です)大阪市危機管理室の資料もそれを引用して、来る東南海地震で東日本震災の津波が発生したら、堤防を越えるのは、大阪ドームの南側だけ。大和側は自転車の速さ、高さは50cm~1m全く被害なしでした。





  正常性バイアス






感謝感謝の来訪者



2012年1月、報道を見、ファミトーのホームページをご覧いただいたのでしょう、清水建設の方が、大阪大学・九州大学の先生とともに、話を聞きに来てくれました。これ幸いに、防災や訓練の話を一通りした後、ホームページ上のデータがいかに実際と異なるつまり間違いで、早くシミュレーションのページを削除してほしいと半分怒りをぶつける場面がありました。大変無礼なことをしましたが、とにもかくにも国民に安全を流布し、国民を危険にさらす「正常性バイアス」を広げている現実を阻止したいと、ご説明したつもりでした。
それが功を奏したとは決して思っていませんが、2013年ころから急にシミュレーションのページはなくなり、今はよく探さないと見つけにくい状態になりました。少なくとも、京都大学をはじめとする権威ある方々は自粛していただいたと良いように解釈しています。[大阪市のアクションプランはまだそのままで、本日も少々利用しています]
2011年の災害直後の話ですが、区役所の職員があるDVDを見せてくれました。2010年東北地方では、東北大学の今村教授が手掛けた防災訓練を奨励する教育用大津波想定映像が各県自治体、そして小中学校へ配布されていました。そのDVDが住之江区役所にも大阪市役所から3月最初の週に届いていたというのです。
中に入っていた映像は、3月11日に報道された現実のものとほとんど一緒でした。今村先生のシミュレーション画像は、東日本大震災・大津波を予告してくれていたのでした。「釜石の奇跡」という今は成語になった話があります。中学生が日常の訓練通り幼稚園児の手を引いて避難しきったのです。その対極が大川小学校の悲劇でした。報道では避難の判断の検証をしていましたが、大川小学校からは直接海が見えていなかった。これが本当の原因です。海や川が見えていない人の正常性バイアスは、そんなに簡単に崩せるものじゃないんです。
間違いなく、あのシミュレーションのような「心配ない大したことはない」というコンテンツ(ホームページの内容)は百害あって一利なしなのです。(水が越えない堤防はない)











    ミッション120  (Mission120)昭和南海聞き取り調査








  ミッション120  (Mission120)

続いて、阪神淡路大震災を思い出してください。
あの時、素人の私たちは、いくつもの教訓を教わりました。
・被災直後は自力で這い出す。(津波のてんでんこう) 自助
・一番近くの人が、自力で助かった人が下敷きの人を救い出す。 共助
・2時間以上下敷きになった人は医者しか救うことはできない(骨折部からのカリウムイオン流出ために心臓が発作を起こす)
・安全な避難所へ移動して、公的機関の到着を待つ 公助
・避難所になった学校では、学校の先生はほとんど役に立たなかった。ボランティアでも役に立つ人と指示待ちの人がいた。
・役に立ち一番感謝されたのは、ボーイスカウトガールスカウト、そしてキャンプ場なんかの野外活動指導員だった。
・学校以外の避難所の存在はなかなかわからず、後回しになってしまった。
東日本の時は、避難所運営にたけたボランティアが登場していました。このことから次のことを提唱しています。

ミッション120  [MIssion120]
・直下型地震も大津波(大阪に到着するのが112分?)も最初の120分しか時間はなく、その間に救助・避難所の設立が必要
・市役所→区役所→学校等公的避難所→個々の避難所 という連絡網
・食料・水の備蓄  これが実際には問題になる自分たちがお金を出した備蓄を他から避難してきた人に渡してよいのか?この問題は、果てしない水かけになりそうなので、ファミリートークでは、その時その人たちに任せる。にしています。私が用意している答えは、激甚災害指定をうけたら、それぞれの備蓄を国は買い上げることができる。という法律を作れば済むということです。
東日本では、あの災害ですから、最初から備蓄はなかった。熊本では、次の日には鹿児島から多量の食料等が届いていたのに、配布できなかった。ですから、これらのことは深刻な問題です。
・役に立ったのは野外活動に長けた指導員だった。幼子のあやし方も元気づける歌をみなで歌ったのも彼らだったそうです。
実は私も野外活動の指導員でした。阪神淡路の時は、若手の指導員を送り出す方で直接は行きませんでした。かなり後悔していますが、すでにPTSD[トラウマ]にかかっていたのだと後で自覚しました。
1982年8月上旬大阪は大和川が松原市(一部大阪市)と奈良県王寺町三郷町が水害にあいました。その日、伊賀の山奥のキャンプ場でキャンプ場長をしていました。落雷により電話は不通、1mさきが見えない豪雨で避難指定されていた青少年の家までのたった300mの移動を子供たち100人にさせることができませんでした。仕方なく、食堂に避難所設立を宣言、まったくマニュアルのない中、学生ボランティアが伝令に走回り、女子スタッフは、ひしめき合って寝るスペースを作ったり、おにぎりを調達したりでした。幸い一晩の悪夢でした。翌日帰宅を許されました。自宅である奈良では、2度目の集中豪雨で地域は孤立、2日間をしのいで、王寺の水害の後を見に行った時のすざまじい風景は、気の小さい私には耐えられるものではありませんでした。私のことは棚に上げて、そんなこんなだから野外活動に携わった指導員は何でもこなしたんです。
大阪市の野外活動系のボランティアは当時、教職員が1/3、学生が1/3、そして社会人が1/3で、かなり理想的な構成になっていました。教職員にも訓練がふせられていたのです。現在、キャンプ場はなくなり、残ったキャンプ場もNPO化されるなどして、専従スタッフが商業ベースで行われています。今や、避難所設営の知識を持つ教職員は大阪市では皆無、夏休みを中心に講習に励む教員はもういなんです。これはこれで大きな問題です。





  昭和南海津波聞き取り調査























2011年その時、私は夜間中学校で卒業式の準備をしていました。新学期になって取り組んだことがありました。終戦前後で起きた東海南海地震のことを覚えているか生徒さん[当時の夜間中学では平均年齢が70歳をこえていました。戦争や差別で学校へ行けず年少から働いていた人ばかりが生徒なので、敬意を表して生徒さんと呼ぶ習慣がありました。]に問いかけたのです。ほぼ全員が覚えていました。その中で、3人の生徒さんが津波に遭っていました。(1946年12月)一人ひとり聞き取りをしました。
一人は女性、和歌山県の南部(みなべ梅の産地)の海岸で、すごい引き潮のあと、魚があちこちで跳ねていたそうです。周囲の人々は「津波だー」と声を掛け合って高台へ逃げたそうです。
もう一人の女性は和歌山県周参見(すさみ)の海岸にいて、大騒ぎになったこと、3~4歳だったので姉さんの手をしっかり握って逃げた。ところが津波に追いつかれ、膝まで水がきたところで、高台にたどり着いた。そして大泣きした。ということでした。周参見はすぐ海岸段丘のあるところだったので幼児でもたすかったんでしょう。それはそれは、手を放さなかった姉のことを感謝していました。
3人目は男性、この人の話を聞いた時、私のその後の行動が変わりました。まず、この人は、翌年病気で亡くなりました。しかし彼の記憶は鮮明でした。12歳で飲食店に丁稚奉公に出ました。姫路市内です。岡持ちみたいなものを持って歩いていた。市内のそこそこの幅がある川の橋にさしかかった。驚いたのは、川にまったく水がなかった。どうしたんだろうと思いながら橋を渡りだすとドォッーと水がやってきて、橋を渡りきる時には水は堤をあふれ出し、市内に流れ出しました。どんどん水位は上がったので彼は、橋の中央に退避したそうです。橋がやや太鼓橋になっていたのだそうで、そこでじっと潮が引くのを待ったそうです。
最初の二人は、さすがに和歌山の話でした。大きく引き潮があったら大津波という伝承を受け継いでいたのです。(東日本津波の時は最初から大津波だったところが多かったので、最初は引き潮というのは決まったことではありません。)
男性の話は、そうではなくて当時ホームページを彩ったシミュレーションの根拠になっていたデータに間違いがあったことになる可能性があったからです。大阪湾に入った津波は友が島の紀淡海峡を経由して明石海峡を抜ける波と、鳴門海峡を抜けた津波があって、姫路は2つの波がぶつかり津波が高くなることは注意深く気象庁の津波注意報を見ているだけでもわかります。しかし、丁稚だった彼の話の通りなら、津波の高さはゆうに4mあったことになります。公式の記録では大阪湾は1mありません。50cm~([80cmWikipedia今])です。和歌山県の広川(和歌山市の南20km)では大変正確な記録が残っています。4m90cm、かの「稲むらの火」で有名になった濱口梧陵さんが作った防津波広村堤防が高さ5mで、あと10cmのところまで波が来ていたからです。
それで大阪湾は和歌山の10分の1とか5分の1だという話が信じられてきました?[正常性バイアス]ところが
① 2011.3/11東日本大津波        和歌山市 1m 大阪 60cm
② 1946 戦後南海津波          広 5m  大阪 50cm
③ 1854 安政南海津波  古座 7.5m 広 8m   大阪 3m
④ 1707 宝永津波  串本5~7m  広 14m(7m)  大阪  3m 
⑤ 1361 正平地震                  大阪 6~ m 
           あまりに高くて信頼性を疑われている
① ~④は広村・和歌山市の半分弱が正しい。ただ、1946年の大阪だけは約10分の1た゜ったことになります。
 ファミリートークの初動マニュアルで、串本・和歌山の津波高の半分、気象庁の津波警報ではなくて、半分の高さを採用しています。それで次の聞き取りを始めました。大阪市で南海津波を見た人を探したんです。大阪市内4つの夜間中学だけでなく、大阪府下の夜間中学の行事ごとに探しましたが、いませんでした。日が経つにつれて、大阪は和歌山の半分に確信を持ちながらも揺らいでいた時、とうとう、昼食先の喫茶店に出入りする人に聞き取りを始めたんです。すると、たった2日目でした。神田翁当時で90歳を超えていらっしゃいました。彼は興行師で
、大阪市内の舞台劇場を走り回り役者の手配を生業にしている人でした。神田翁は大変聡明な方で、はっきり証言を頂いたのです。
「この時は、築港(大阪港)は水に浸かったただし、歩けたから怖いとかは思わなかった。」(港湾労働者は長靴だったそうだ)というのです。桟橋は冠水したのです。ということは、少なくとも2m強の津波があったのが事実だったということになります。どんどん有名大学のシミュレーション結果は破綻だという証明へと進んでいくのですが、最後にひとつ詰めなければならないことがありました。
 そのダメ押しをするために大阪府下の夜間中学校で行事を打ちました。11月にずれ込みましたが見学遠足です。都島区毛馬の閘門がある国土交通省近畿管理局淀川河川事務所でした。前年2010年には大雨のため大堰にある水門8つを全開してぎりぎりで災害を阻止できた話は、事務官の話に力が入っていました。一通り見学した最後がモニター室でした。淀川水系の数ある川にはモニターが設置されていてビデオ撮りされています。「大和川では3.11に津波の遡上があったんです。やっぱり淀川も遡上がありましたか?」モニター室の誰もが互いに顔を見合わせて、「大和川ではそんなことがあったんですか。」淀川ではそんなものはありませんでした。」その部屋の全職員がうなづいていました。
 期待を大きく外されました。大和川では真西から、これは数あるシミュレーションが南西からでしたから45°もくるっている、速度も違う。淀川は南西から来ていたなら絶対に来ていると思いました。大和川は川幅が180m、住之江区では200mです。淀川は1000mあります。5倍も河口があるので何らかの現象があったはずなのに。津波は大阪湾で真西から真東に方向を変えて襲ってくるため大阪市北部はゆるくなるのか、いずれにせよ、素人があれこれ言ったところで、雑談以上にはなりませんでした。



  




  最後のワンピース




  

 それでもめげないで防災の啓発活動は続けましたし、DIOS作成にも時間を割きました。年に一度くらいで市内のいろんな地域の人に来てもらい、特に津波避難訓練を見てもらいました。
  その日は来ました。

 2015年6月14日昨年同様いくつかのマンションに来ていただき情報交換意見交換をした際、「大和川の津波遡上があったのに、国土交通省近畿管理局淀川事務所のモニター室にお邪魔して話を聞いたらなかった、空ぶりだった。」と「淀川にも津波は来ましたよ。」「えっ」「中津リバーサイドマンションの居住者で何人かが目撃されて、スマホに撮った人もいます。それが50cmの高さでかなりスピードのある自動車(時速50km/時?)のようだったと言ってました。」
この瞬間、「最後のたった一つのピースがはまったな」ついにジグソーパズルは完成しました。津波は大阪湾の一番奥までやって来た。ニュアンスでしかないですが淀川の方が“きつい“、方向は南西から。大和川と結果を突き合わせてみると、素人の経験則的科学と称しましょうか、大阪湾の水深15mラインを基準に垂直に襲ってくる。これが答えでした。







  高潮と津波は同じだ










  

防波堤の話
 昭和28年1953年のジェーン台風は大変な水害を阪神地区にもたらしました。その後政府はアメリカからの円借款をして防波堤をめぐらしました。最後のアメリカ円借款が阪神高速道路だったというのは蛇足ですが、借金をしてでもやらねばなりませんでした。1959年伊勢湾台風、1962年の第二室戸台風と超A級の台風がその頃は来ていました。防波堤が完成していたはずなのに第二室戸台風では、西淀川区が2m水没しました。聞くと、台風で漂流してしまった大型船が新品防波堤に激突大破したのが原因だったそうです。あれからもう60年になろうとしています。大阪市の学校の場合48年が減価償却年数で、ひどい建物から順に建て替えられていきます。しかし、防潮堤の建て替え計画はどうなっているのでしょうか。誰かに聞いてみたいものです。というのも、新品だった伊勢湾台風の時から防潮堤は壊れていました。日本国中であちこち壊れていて、設計基準が10t/㎡実際は12〜16t/㎡に耐えていると数年前に国は調査をしていました。この数値が微妙でした。津波の速度が本当に時速40〜50km/時だと、耐えられない。西淀川区では国道2号線、阪神電車が堤防を越えるところに防潮扉が設置されています。練習以外でも絞められたことがあると聞きました。(2015年)どうもここにも落とし穴が隠れていそうです。ただ増水するだけなら防潮鉄扉は有効ですが、時速数十キロの津波の場合は違うかもしれません。ただ幸なのは、正面で津波を受けてしまう場所はそんなにないかなと言うところです。続きは専門家に任せます。
 さて、2013年のアメリカのハリケーン“カテリーナ”や2014年のフィリピンの台風“ハイエン“のことを覚えていますか。風速がすごいと風上・風下の窓ガラスが破損、部屋の中身が全部飛んで行ったとか、”ハイエン“では、高潮が津波の映像を見ているような錯覚をおこすほど、すごいものでした。

 2014年の訓練の反省会の後だったと思います。居住者の方が「私も南海地震津波」を体験したと名乗り出てくれました。
「その日はね大変な大風で、事務所に待機してたんだ。そうすると、事務所から『津波だ』大至急防潮扉をしめろー、て怒鳴られて全員で締めに行きました。そしたら、全然間に合わず、半分くらいのところで人の背の波にのまれましたよ。みんな流されました。」彼は、西成区の造船所通りと言うところで船の荷揚げ作業を仕事にしていました。大変誠実な人柄ですから、きっと何かと勘違いをしておられると思いながらお話を聞きました。なぜ、わざわざこの話を出すか分かりますか。彼は、伊勢湾台風の高潮被害の体験者だったんです。西成区のその地域だけ出水していました。超大型A級の台風が大阪の北側を通過する時、津波に匹敵する水害に合うという事です。伊勢湾の新品の堤防が破壊されたように、大阪湾でも襲ってくることは“ハイエン”と同様だったんです。
台風の水害の時、台風の大きさと満潮の時間が話題になりますね。今話した高潮ですよね。漁業者にとって死活問題でしょう。実は、津波の話が新聞で賑わっていたときも津波が大阪で3.4mなら平均の潮を1.3m、大阪湾の修正値(OPと言って加えなければならないそうです)1.5mとして6.2m、防潮堤の高さが7mですからセーフです。というもので、今言われていることです。典型的な「正常性バイアス」です。なぜなら、大潮にぶつからなければいいんや、平均はクリアだ、と思いませんか。小潮は0.3mで大潮は確かに2.3m、大潮さえぶつからなければセーフ???
1日に潮の満ち引きは2回、毎日何十分ずれながらも6時間おきに干満を繰り返します。津波は、東日本の時で被害をもたらしたのが5回、学者は10回近く大きなものが来る。と言います。必ずしも1回目が一番大きいのではない。大津波は一波が40分から1時間、計算に強い人はもう分かりましたね。東日本で(4時間)次の東南海地震が恐れられている同時に発生したら、6時間を覚悟するのは短い方かもしれません。6時間、つまりその日の大潮と必ず重なる。最初から足し算の結果だけを公表すればよいのに、素人に分かりにくい式をただの足し算だからみたいな感じで新聞に載った時、あなたはどの数値を気にしますか。防潮堤は超えないとNHKも解説したんです。報道に携わ人が「正常性バイアス」に毒されていて、200万大阪市民は「正常性バイアス」に誘導されてしまったわけです。円借款で防潮堤を作った時は、今より2m高かったという事はどうでしょう。建設時、地盤沈下を予測して作ってはいません。本当にジェーン伊勢湾第二室戸を体験した人が作った防潮堤よりもう地盤沈下で2m低くなっていることは事実なんです。先ほど大阪湾を3.4mの津波が来たらと仮定しましたが、それが大阪の公式見解東南海地震津波の想定値です。

  




 フィリピン台風30号 ハイエン ビデオ
  
  
  




  KIX関西国際空港の防津波堤防のかさ上げ工事
  

 2011年冬、関西新空港KIXの防潮堤かさ上げ工事が始まりました。翌年2012年完成しました。KIXのホームページには、当初の津波の想定が1.7mだった。東日本地震津波や来る東南海地震を再評価して、2倍の3.4mにしました。現実にはOPだの平均の干満潮だのをいれて造られました。ココ、すごいのがお分かりになりましたか。水深20mのところに作られた人工島KIXと海岸線である大阪港の想定津波高が同じなんですけど!!たしか、水深10mまで津波がやってくると高さは1.2倍、水深5mで1.4倍、2.5mで1.7倍。1mまで津波がやってきたら2.1倍(気象庁の算出方法)、ほとんど津波だけで7mになるんですけど、そこにOPだの平均潮高を加えたら、1361 正平地震の6〜9mの津波は本当にあったかもしれない参考資料になるんじゃないでしょうか。1361年のこの地震は法隆寺に古文書があるとか、それによると、四天王寺の安居殿の石段の下3段まで来たという記述だそうです。安居殿は真田幸村が討ち死にした安居神社だとされていて、そこの石段を見てみたら、そばに天王寺動物園があって、本当にこの石段の三段まで水が来るとするなら、動物園のサファリエリアの動物たちライオンもキリンもみな死んでしまう。アシカは逃げ出すのかな。



  




  今後の課題






  

とうとう最後今後の課題を整理します
2016年6月DIOS机上訓練を行いました。期待したほど多くの管理組合が集まることはありませんでした。が、Mision120の考え方と実際のDIOSを触ってもらいました。最初練習用(学校で授業に使用するなどのもの)のID・パスワードと混乱してとま取りましたが、だんだん被災した時の想定が具体的にイメージできるようになり、津波、水害の時、突然人が集まったところが避難所になる。特にマンションなどがそうで、帰宅困難者たちは水が引くまで留まるわけです。この時、人が集まって臨時避難所が出来たことを告示しなければならないとか、みんなの見るGoogleMapにどう書き込めばよいか、そして物資が集中する学校などに統計資料をどうやって提供し、また物資の供給を受ければよいか、などの話をしました。最後の感想を聞く中で、実は参加者に阪神淡路大震災の体験者がおられて、これは、まず神戸で広めなければ(ただし、DIOSは大阪市内しか準備されていません。)ならない。みんなが、物資の分配で苦しみ、食料を“腐らせた”基幹避難所と対極の小さな苦しむ避難所があった。東日本震災の時も、今の熊本でもまた同じことを繰り返している。
というものがありました。前半でお話ししたように、IDとパスワードをどう配布するのか。今後の継続など課題もてんこ盛りです。
 ファミリートーク新北島管理組合では3000食の備蓄を目指していますが、被災時、多くの帰宅困難者が集まったとしたら、備蓄食料の分配で問題が発生するのは火を見るより明らかです。激甚災害指定時は、ある程度の基準を超えている各備蓄物を公的に買い上げる仕掛けをみなさん、考えて頂けませんでしょうか。

本日は、未熟なわたくしの話を我慢強くお聞きいただき誠に有難うございました。願わくば、自分の地域に戻られた際、役所任せでない。自分の子・孫のための防災対策を講じてください。
   2017年5月20日
 ファミリートーク新北島管理組合法人
         加治屋直喜



  




 今村教授2010年
  
  
  




 資料 
  
1.以前のシミュレーション動画








  






2.NHKスペシャル南海トラフ巨大地震2016年4月









  






3.SNS有効性2016年3月